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日本との関係 / 日本とNZの歴史

フェザーストン捕虜収容所事件と慰霊(Featherston POW camp)

概要

第二次世界大戦中、ワイララパ地方フェザーストンの捕虜収容所で、1943年2月25日に日本人捕虜48人とNZ人の警備兵1人が亡くなる事件が起きました。現地には慰霊の公園とさくら庭園があり、毎年慰霊式が行われています。日本とNZの歴史を知りたい人向けの解説です。

詳細

収容所の場所と経緯

フェザーストン(Featherston)は、ウェリントンの北東、ワイララパ(Wairarapa)地方にある町です。町の近くには、第一次世界大戦中の1916年1月から軍の訓練キャンプがありました(NZHistoryの記念碑のページ)。

時期出来事
1916年〜第一次世界大戦軍の訓練キャンプ。最も多いときで8,000人が滞在
1942年南太平洋で捕らえられた日本人捕虜約800人を収容する捕虜収容所として開設
1943年2月25日捕虜と警備兵の衝突で49人が死亡
1946年捕虜収容所としての役目を終える

サウス・ワイララパ地区カウンシルの記事によると、第一次世界大戦中(1916〜1918年)には6万人以上の兵士がここで訓練を受けました。

1943年2月25日の事件

NZHistoryの解説によると、事件の流れは次のとおりです。

  1. 到着して間もない捕虜たちが作業を拒み、座り込みをしました。
  2. 警備兵が威嚇射撃をし、その弾がアダチ・トシオ(Toshio Adachi)少佐を傷つけた可能性があります。
  3. 捕虜たちが立ち上がると、警備兵が発砲しました。

この事件で、日本人捕虜48人とNZ人の警備兵1人、計49人が亡くなりました。NZHistoryの記念碑のページでは、抗議に加わった捕虜は約250人とされています。

調査とその後の受け止め

軍の調査委員会(court of inquiry)は、警備兵の責任を問いませんでした。一方で、捕虜と警備側の間に根本的な文化の違いがあったことを認めました。日本政府はこの結論を受け入れませんでした(NZHistoryの解説)。

慰霊と和解

戦後、NZと日本の双方の関係者によって、慰霊の場が整えられてきました。

年出来事
1974年戦後初めて元捕虜がフェザーストンを訪れ、現地で線香を手向ける
1979年アンザック・デー(Anzac Day)に記念公園が正式に開園
1986年12月12日の式典のあと、日本人捕虜の記念の銘板が置かれる
1993年ナカモト・トシオ(Toshio Nakamoto)氏が、記念公園の隣に土地を購入
1996年12月8日、ペルビン二等兵(Private Pelvin)の記念碑が除幕される
2001年7月6日、地元のボランティアが桜68本を植える
2002年7月、平和の庭園が正式に開園
2016年庭園が「さくら庭園(Sakura Garden)」と名付けられる

日本人捕虜の銘板には、松尾芭蕉の俳句「夏草や 兵どもが 夢の跡」が英訳とともに刻まれています(NZHistoryの記念碑のページ)。

在NZ日本国大使館の資料によると、記念公園にはフェザーストン軍事キャンプの記念碑、日本人の慰霊碑、ペルビン二等兵の記念碑などがあります。日本企業の現地法人が、記念碑とさくら庭園の整備に協力してきました。

毎年の慰霊式

記念公園では毎年、事件で亡くなった人々を追悼する式典が開かれています(在NZ日本国大使館の資料)。2022年の79周年の式典には、駐NZ日本国大使、駐NZオーストラリア高等弁務官、サウス・ワイララパの市長、地元のカウマートゥア(kaumātua、マオリの長老)などが出席しました(サウス・ワイララパ地区カウンシルの記事)。

訪れるとき

記念公園は、フェザーストンの町とタウヘレニカウ川(Tauherenikau River)の間、国道2号線(State Highway 2)の南側にあります。慰霊の場なので、静かに見学しましょう。

日本との違い・注意点

  • 事件の受け止め方は、当時のNZと日本で違いました。NZ軍の調査委員会は警備兵の責任を問わず、日本政府はその結論を受け入れませんでした。
  • 犠牲者の数え方は資料によって表現が違います。NZHistoryの記念碑のページは「その場で亡くなった人と、後に傷がもとで亡くなった人を合わせて48人」と説明しています。
  • 英語の資料では「Featherston incident」と呼ばれることが多いです。
  • NZの日本人の歴史全体はNZの日本人の歴史を、両国の関係は日本とNZの関係を読んでください。

関連項目

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